キレイな言葉が、見当たらない

殴り合うときは拳じゃなくて、言葉で

なりたくない。だって好きな人だから

令和で一番気持ち悪いタイトルをつけました
どうも、わたしです
2月、はてブ頑張ってる!偉いぞ、わたし!

ということで、18日は
家でオードリーの東京ドームイベントの生配信を観てまして

源さんだけでなく、ありとあらゆる演出に
目を輝かせ心を躍らせました

続けてきた先にある、ゴールっぽく見える通過点に
いつも通りのスタイルでたどり着いた姿は
自分の人生じゃ見ることができない景色だよなって思ったりしました
(なんかニュアンス違うな
 自分の人生を俯瞰するのは大変だけど
 他人の人生だから俯瞰できて発見や学びが多いって感じがしたのよね)

SNSで感想がたくさん流れてくるんだけど
源さんの「立ち上がりませんか?」と「配信見てるみなさんも」や
「急に立つと貧血出ちゃう人もいるから気を付けてね」の声に対し
星野源みたいになりたい」って声もたくさん目にしていて

みんな星野源みたいになりたいって思うよね

わかる

だけど、わたしは星野源が大好きだから
星野源みたいにはなりたくない
いつまでも彼の一挙手一投足を見つめ
「うわ~やっぱ好き!」って噛みしめたい

星野源を目指して
星野源みたいになってしまったら
「あぁ、そういう形にもできるのか」みたいになりそうで

いつまでも好きなままでいたいし
憧れることの楽しさを忘れたくないんだよ

気持ち悪いファンだってことぐらいわかっているよ

好きな人だから、同じようにはなりたくない
でも、見つけているお洋服とかアクセサリーとか
カバンとかスマホケースとかは
お揃いにしたい(気持ち悪い)
同じものを身に付けたい(気持ち悪い)
日々の生活の中に好きな人を取り込みたい(気持ち悪い)

好きでいる形というのは人それぞれなのでね。
ほら、多様性の時代じゃん?今って
だからわたしのこんな気持ち悪い「好き」の形も
受け入れなくていいけど、否定はしないでほしいのよ。

あとね、最近仕事をしていて「あ、いつもこれを意識してるな」っていうのを
ふと思い出しまして
「正解か正解じゃないかを決めるのは、受け取り手
 こっちが勝手に決めるんじゃなくて、あっちが勝手に決めるもの
 落としどころの軸さえブレさせなければ、そこまで思いつめる必要はない」
っていうのなんですがね

わたしは商業ライターなので
クライアントの意向やメディアの色を見て
「ここはこんなニュアンスにしよう」などなど構成を考えて
まとめていたりするんですが、
「読んだ人全員がこう思ってほしい」なんていう気持ちでは書いたことなくて
「賛否両論あると思いますが、一旦、わたしが得た情報をまとめてお伝えします」
ぐらいの熱量なんだよね

伝えたいことがないわけじゃない
だけどね、今SNSをやっている人たちの言葉を見ていると
わたしは、やっぱり声を上げてまで伝えたいことなんて
ほとんど持ち合わせていない人間だと実感する

感想なんて勝手に受け取った側の言葉なんだから
そこに振り回される必要はないし
そこに合わせに行く必要もない

これがオードリーANN東京ドームのわたしの感想

さ、生姜焼き定食を食べ終えたので
午後もがんばろー(しんどい)